依網池址の碑

依網池址の碑

大阪市住吉区庭井2丁目の大依羅神社南参道前。

昭和5年3月、大阪府によって建立された。

歴史に残る天美の西北に広がる大池

天美西を中心に広がる大和川今池遺跡では、旧石器から近世にいたる非常に長い時代、人々が住み続けてきました(「歴史ウォーク」15・「歴史ウォーク35」)。

現在の大和川今池下水処理場の地は、旧油上・芝村のため池であった今池を昭和54年に埋め立てたものです。

今池は、寛文9年(1669)7月の油上村絵図に記されていますので、近世初期までにはつくられていたのでしょう。

しかし、古代にあって、同地は条里制に基づく整然とした方形の土地割が実施されていました。

7世紀前半にさかのぼっても、難波宮と大津道(長尾街道)を南北に結ぶ「難波大道」も通っていました。

今池は、ほぼ整形な池でしたが、これは条里地割に基づいた2坪4方の農地を灌漑池としたからです。

今池が所在した油上や芝村は、奈良時代から平安時代にかけて、河内国丹比郡依網郷に含まれていました。

依網の地は、天美地域だけではなく、摂津国住吉郡にも大羅郷があることから、両郷は地続きで、両郷をあわせて依網と称していたと考えられます。

大羅郷は、いまの大阪市住吉区我孫子・苅田・庭井・杉本・山之内にあたります。

この地には古代以来、依網池とよばれる大池が存在していました。

『日本書紀』の崇神天皇62年に「冬十月、依網池を造る」とあり、応神天皇13年には「水渟る依網池に蓴繰り」と記されています。

また、推古天皇15年にも「依網池をつくる」とみえます。

崇神や応神朝の記事は、造作があったらしいのですが、推古天皇のころには狭山池がつくられていましたので、依網池も7世紀初頭には存在していたと思われます。

依網池は、狭山方面から流れる西除川の河水の一部などを集水して、池の北部および東部の中位段丘の耕地開発や灌漑のために築造されたのでしょう。

宝永元年(1704)の大和川の付け替えで、新川が池を横断し、池床が埋められ農地となったので、池は形が変わり、著しく縮小しました。

ですから、古代以来の池の範囲は不明ですが、その大半は、中世や近世の絵図などから、我孫子・苅田・庭井から堺市常盤町に広がっていました。

市域との関わりでは、東側池畔が今池に接していたらしく、南は西除川の南側で限られていたようです。

面積は時代によって違いますが、30~60ヘクタールと推定されています。

また、平均水深は2メートル以下とみられます。

享保20年(1735)刊の『河内志』は、依網池について「丹北郡池内池。在、池内村。広三百余畝、或曰依網池」とあるように、近鉄河内天美駅前にあった池内の弁天池(大半が埋め立てられている)とするなど、江戸中期にはすでにその所在地は混乱していました。

のち、味右衛門池と名を変え、最後まで残っていた庭井の池も昭和40年代に潰廃し、依網池は地上から姿を消したのでした。

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