アラル海に魚と人が戻ってきた

「消えゆく湖」アラル海に魚と人が戻ってきた

「史上最悪の環境破壊」の一部、漁獲高ゼロがいまは8000トンに

2018.03.26

冬のアラル海を覆う分厚い氷の上に、雪が降り積もっている。

ここはカザフスタン共和国の町アラリスク。

氷に開けた穴を、25歳の漁師オミルセリク・イブラギモフさんが真剣な目で見つめていが。

3日前に父親と一緒に氷の下に仕掛けていた網を、慣れた手つきで穴から引き揚げると、わずか数分のうちに網にかかった魚が次々に姿を現した。

その横で、父親のキディルバイさんが網から魚を外す。

素手だ。

刺すように冷たい水のせいで、指の関節は真っ赤になっていた。

網を全て回収してみると、この日の収穫はスズキに似た淡水魚のパイクパーチが35キロ、コイの仲間のブリームが20キロ。数時間の作業にしてはまずまずの成果だ。15年前だったら、ありえなかっただろう。

かつての総面積は6万7300平方キロで、世界第4位の内陸湖だったアラル海は、1950年代のソビエト連邦の農業政策によって、大部分が干上がってしまった。

アラル海に注ぎこんでいたアムダリヤ川とシルダリヤ川が、綿栽培のために人為的に流れを変えられたせいである。(参考記事:「アラル海からの警鐘」)

注ぎ込む水量が減少したため、湖の塩分濃度は上昇し、豊富にいた淡水魚の数が減少し始めた。

かつてアラリスクに多くの雇用をもたらしていた漁業は、1980年代に壊滅的な打撃を受け、人々は仕事を求めて他の地域へ移住せざるを得なくなった。

地元に残った人々も、干上がった湖底による砂嵐などの局地的な異常気象と、砂ぼこりに含まれる化学物質による健康被害に苦しめられた。

「湖を破壊した人間に、自然が報復したのです」。アラリスク地方博物館と漁業博物館の館長を務めるマディ・ザセケノフ氏は言う。

7カ月で水位が3.4メートル上昇

カザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海は、わずか30年もたたないうちに元の面積の10分の1にまで縮小し、環境科学者をして史上最悪の環境破壊のひとつとまで言わしめた。

残された湖は、北(小)アラル海と南(大)アラル海の2つに分断されている。

ウズベキスタンにある南アラル海は、東から干上がり、一筋のごく小さな水域が西の端に残るだけとなった。(参考記事:「アラル海、縮小の歴史」)

一方カザフスタンの北アラル海は、幸い世界銀行などからの支援を受けて、8600万ドルの環境回復プロジェクトに取り組んだ。

周囲を取り巻く既存の堤防を修復して流出を防ぎ、全長13キロにも及ぶコクアラル・ダム(堤防)をシルダリヤ川の南に建設した。

2005年夏に完成したダムは予想以上の効果を上げ、わずか7カ月で水位は3.4メートル上昇した。

当初は、この数字にたどり着くまで3年はかかると考えられていた。

その結果、湖に魚が戻り、湖の近くに暮らす人々が増え始めている。

政府の政策がアラル海の崩壊を引き起こしたが、その後、慎重な計画と研究によって少なくとも一部を回復させることに成功したというわけだ。(参考記事:「ロシアの自然保護区100年、厳格さの背景」)

カザフスタンのアルマトイにあるKIMEP大学の教授で、アラル海の縮小が経済へもたらす影響について研究してきたクリストファー・ホワイト氏は、アラル海が元の大きさに戻ることはないが、北アラル海の水量が18%回復したことは、政治的意思と科学的研究によっていかに環境を改善できるかを示していると語った。

「人間が破壊した生態系は、人間の介入によって回復できます」と、ホワイト氏はいう。(参考記事:「地球の表面、30年前より陸地が増えた」)

1987年には漁獲高がゼロに

1957年のピーク時、アラル海にはソビエト連邦全体の魚資源のおよそ13%を占める4万8000トン以上の魚が生息していた。

それが1980年代までには、塩分濃度の上昇によって20種の固有種が死滅し、1987年には商業漁業による漁獲高がゼロという事態に陥った。

湖水は減り続け、現在の湖岸はアラリスクの町から20キロも離れている。

塩分濃度が高くなった北アラル海を生き残った魚はヒラメの仲間だけだった。

その後、コクアラル・ダムが完成してからは1リットル当たり平均30グラムだった塩分濃度が8グラムまで低下し、おかげで約20種の淡水魚がシルダリヤ川から戻ってきた。

アラリスク魚類検査局の検査長エセンバイ・エンセポフ氏によると、北アラル海の漁獲高は2006年の6倍に増加したという。

2006年当時、1360トンの漁獲高のほとんどはヒラメだったが、2016年の漁獲高は7106トンで、最も多く捕れたのはブリーム、次いでコイ科のローチ、そして人気のパイクパーチも捕れるようになった。

2018年には、漁獲制限量が8200トンに設定されている。

魚が戻ってきたことから、内陸の町アラリスクでは商業も活気を取り戻している。

魚の加工工場の監督を務めるアスカル・ズマシェフさん(42歳)の作業班は、2年前におよそ500トンの魚を加工したと話す。

ズマシェフさんがこの工場で働き始めて以来最高の数字だったそうだ。

「私が生まれた時、この町の湖はもう干上がっていました。アラル海を初めて訪れたのは2年前のことです。私の両親はよく、昔港だった場所に毎日のように船が出入りしていたと話していました」と、ズマシェフさんは語った。

漁師が増えたが、密漁も多発

冬の朝、アラリスクから約4時間ほど離れたタスツベクの村は人けもなく静まり返っていた。

だが、午前10時ごろになると町は活気づき、漁師たちが集まって道具を点検したり、その日の計画を相談する声が飛び交い始める。

アラル海までは車で1時間の距離なので、魚を大量に捕って、夕方には村に戻れる。

イブラギモフ家の家長であるキディルバイさんは、1973年にここで生まれ、タスツベクの変化を目にしてきた生き証人だ。困難な時期によそへ移り住んでいった人々とは違い、キディルバイさんの家族はラクダやウマなどの家畜を飼って生計を立てた。

キディルバイさんがまだ少年だったころ、村には家が90戸あったという。

「90年代半ばには、9戸にまで減っていました」。

昨年は、その数が29戸、そして今年は34戸に増えた。

新しく村へやってきた人々は、すぐに金儲けができると期待する若い漁師たちだ。

「村が大きくなるのはうれしいです。そうすれば政府の注意も向けられ、道路建設やその他の支援をしてくれるかもしれません」と、キディルバイさんは言う。

だが、良いことばかりではない。魚の繁殖期にあたる5月から7月に、密漁が多発するようになったというのだ。

アラリスク出身の漁師アルダンベク・ケリノフさんは、禁漁期間は魚たちが湖岸の近くへやってきて産卵するため、魚がよく捕れる時期でもあると説明する。

ケリノフさんは、以前はタクシー運転手をしていたが、7年前から兄弟たちと一緒にフルタイムで漁師をしている。

「昼間は検査官の目があるので、夜間に漁に出る人が多いです。ここにはほかに仕事もなく、漁が主な収入源なので、禁漁期間など関係なく漁に出る人が後を絶ちません」

「息子は結婚して、漁を続けていくでしょう」

キディルバイさんにとって、湖は常に予測がつかない自然の力であった。

1987年、アラル海は思ったよりも早く、11月初めに凍り始めた。

そのため、家族が所有する漁船は岸から300メートル離れた湖上で動けなくなってしまった。

キディルバイさんの父親は、まだ薄い氷が割れる恐れがあるので、自分の体にロープを括り付け、湖岸から漁船までソロソロと歩いて行った。

当時15歳だったキディルバイさんが見守るなか、父親は鉄の斧で船の周りの氷を砕き、無事に船を岸まで引いて戻ってきた。(参考記事:「海に沈む、干上がる――漁港の街の悲しき今」)

5年後、キディルバイさんに運は味方してくれなかった。

夏に友人と一緒に漁に出ていたところ、嵐に遭い、船が転覆して友人の命が奪われた。

この事故にひどく衝撃を受けたキディルバイさんは、その後3年間漁に出られなかったという。

繁殖期に漁に出るのは確かによくないと、キディルバイさんは言う。

だが、貧困と厳しい生活に何十年も苦しめられてきた人々は、豊かな生活を求めて必死なのだという。

「今では、みんなどうやってできるだけ多くの金を稼ぐかということばかり考えています」

アラル海へのキディルバイさんの思い入れは変わらない。

他へ移住するなど、想像もつかない。淡水魚が戻ってきたことで、息子の将来もここにあると固く信じている。

「アラル海は私たちにとって命の源です。来年、息子のために家を建てようと思っています。息子は結婚して、漁を続けていくでしょう」

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