粽を食べる日

端午の節句は粽を食べる日

その起源には古い物語がある。

今から二千数百年前の中国は戦国時代で,楚の人屈原は王族の一員として活躍していたがねたまれて失脚し,湘江のほとりをさまよい泊羅(べきら)に身を投じた。

その死を嘆いた人々は供物の米を川に投げ入れる。その時むき出しの米では竜に食べられてしまうので茅で包んだ。

屈原の命日が5月5日だったので,この日を五節句の一つ端午の節句として,粽を食べる習慣ができたとのこと。

また端午の節句に柏餅も食べるが,柏の葉は枯れても枝から離れない。

このことから武家をを中心に「子孫繁栄」の縁起物として広まったものである。
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中国のちまき

中国において、ちまきは水分を吸わせたもち米を直接葦の葉で包み、茹でる、もしくは蒸す方法で加熱して作る方法が主流である。

米と一緒に、味付けした肉、塩漬け卵、棗(なつめ)、栗などの具や、小豆餡などを加えることが多い。

特別なものでは、アワビやチャーシューを包んだものもある。

形は正四面体が多いが、直方体、円筒形のものもある。

中国北部では甘いちまき、南部では塩辛い味のちまきが好まれるが、そうした違いは南北との交流が盛んになった現在では少なくなってきている。

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歴史(中国)

中国の伝説では、楚の愛国者だった政治家で詩人の屈原が、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した後、民衆が弔いのためのほか、魚が屈原の亡骸を食らって傷つけないよう、魚に米の飯を食べさせるため、端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ米の飯を川に投げ入れたのが起源とされる。

このため、中国などで端午の節句に食べる習慣がある。

実際の考証でも、2000年あまり前の戦国時代には出現していたと考えられる。

西晋(3世紀)の周処は『周処風土記』に「仲夏端午、烹鶩角黍。」(夏の端午の節句に鶩角黍を調理する)と記しており、粽のことと考えられる。

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日本のちまきの歴史

承平年間(931年 – 938年)に編纂された『倭名類聚鈔』には「和名知萬木」という名で項目があり、もち米を植物の葉で包み、これを灰汁で煮込むという製法が記載されている。

元々は灰汁の持つ殺菌力や防腐性を用いた保存食であった。

その後、各地で改良や簡略化が行われ、京では餅の中に餡を包み込んだり、餅を葛餅に替えるなど独自の物も出来て来た。

現在は柏餅と並ぶ端午の節句の供物として用いられる。

『伊勢物語』(五十二段)、「人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲(しょうぶ)刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞ わびしき」とあり、昔は菖蒲の葉も用いたようである。

種類

日本では、包むのに使う葉はチガヤ、笹、竹の皮、ワラなど様様である。

江戸時代、1697年(元禄10年)に刊行された本草書『本朝食鑑』には4種類のちまきが紹介されている。

1.蒸らした米をつき、餅にしてマコモの葉で包んでイグサで縛り、湯で煮たもの。クチナシの汁で餅を染める場合もある。

2.うるち米の団子を笹の葉で包んだもの。御所粽(ごしょちまき)、内裏粽(だいりちまき)とも呼ぶ。

3.もち米の餅をワラで包んだ餡粽(あんちまき)。

4.サザンカの根を焼いて作った灰汁でもち米を湿らせ、これを原料に餅を作りワラで包んだ物。朝比奈粽(あさひなちまき)と呼ばれ、駿河国朝比奈の名物というが、これはもう作られていない。

このうち、1は新潟県の「三角ちまき」など現在でもよく作られるちまきである。

うるち米の粉で餅を作った後、これをササの葉やマコモの葉で包む。

これを茹でるか蒸籠で蒸らして作る。そのままか、もしくは4に準じた食べ方をしている。

2は現在の和菓子屋で作られる和菓子のちまきの原型であり、現在の餅の原料は葛に代わっている。端午の節句に作る店が多い。

3の飴粽(糖粽とも書く)は、餅が飴色になっているため、この名があるという。詳細は糖粽売の項目を参照。

4は、灰汁(あく)による保存と品質維持を期待した保存食の一種。きな粉や砂糖を混ぜた醤油で食べる。

このほか、新潟県で笹団子と呼ばれる、笹で包んで両端をワラで結んだ形状のものも茨城県常陸太田市ではちまきと呼び、名物となっている。

また、ちまきとは呼ばず端午の節句とも無関係であるが、月桃の葉で包んだムーチーと呼ばれる類似の菓子が沖縄にある。

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