日本語の歌なのに

日本語の歌なのに、なぜ英語が混ざっているのだろう?

2018/08/09(木)

「日本語の歌なのに、なぜ英語が混ざっているのだろう?」……J-POPなどを聴いて一度は疑問に思ったことのある人も少なくないのではないだろうか。

先日、アメリカ在住の友人(主婦)がジャニーズの若手グループ、キンプリことKing & Princeのデビュー曲で今年春クールのドラマ「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS系)の主題歌になった「シンデレラガール」にハマって、SNSでその話題にふれていた。

同じアメリカ在住のママ友たちからおおむね好意的なコメントがつくなか、「曲は好きだけどこの子たち、『Girl』って言えてないんだよね。それが残念」との意見が出た。

そこから話題はキンプリから離れ、J-POP全体の話題へと拡がった。

「なぜ急に途中から英語になる曲が多いんだろう。すごく不自然」「日本語で全部歌ったほうが統一性がとれていいのでは」といった議論が展開された。

果たして、なぜ日本語の歌なのに英語が混ざっているのか?

筆者は2年ほど前、“日本語ロック”の先駆者といわれる伝説的バンド、はっぴいえんどの元ギタリストである鈴木茂を取材した。

はっぴいえんどは、作詞家として知られる松本隆、細野晴臣、故・大瀧詠一さん、そして鈴木という顔ぶれで、1969年から72年まで活動、松本の詞は“日本語ロック”と呼ばれた世界観を構築したとされる。

そんなはっぴいえんどが活躍した時代、70年代初めに“日本語ロック論争”と呼ばれる議論があったという。

ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか。音楽雑誌などで意見交換がされたのだとか。

実際にそれが議論と呼べるものだったかどうかについては異論があり、英語で歌っていた“英語派”ミュージシャンが日本語で歌うミュージシャンにクレームをつけただけ、という見方もあるようだ。

ただ、日本語はロックのメロディーに乗りにくいし、海外で成功するにも英語は不可欠である、といったような考え方から英語で歌うミュージシャンと、はっぴいえんどをはじめとする日本語で歌うミュージシャンが混在していたのは確かだ。

それについて当時の生き証人ともいえる鈴木に話を聞くと、「すでに高田渡さんや遠藤賢司さんら日本語で曲を作るフォーク歌手がおり、僕らが日本語を選んだのは自然な流れだった。

日本語はロックに合わないと主張した人たちもいたけど、お互い切磋琢磨してやっていたよ」と、懐かしそうに振り返っていた。

そこから数えてもすでに約半世紀、現在においては、J-POPの歌詞に当たり前のように英語が混ざることについて、楽曲を作る側のアーティストたちはどう考えているのだろうか。

(株)I.Y.Oの 音楽プロデューサーで作曲家の油布賢一氏は、「POPS隆盛の現在の日本音楽シーンにおける日本人の洋楽への憧れもありますが、J-POP、いわゆるポップスやロックは日本固有の演歌や音頭と違い、もとは海外から派生したジャンルを模倣するところから始まっており、BPM(テンポ)も早いものが多く、16分音符などの早い展開も多いため、はっきり発音しないといけないイコール、いわゆる母音が50音すべてに含まれている日本語とはあまり相性が良くないんです」と、分析する。

かたや英語を司るアルファベットは24音中、母音が5個しかなく、1つの単語内において子音のつながりで読むことができるものが多いのだとか。

「英語の場合は子音が母音の間で緩衝材となり、スムーズに次の言葉につながる。

よって、つなぐ過程において子音が多い英語を重用するのは音楽業界にいる私たちにとっては当たり前。

むしろ深くそんなこと考えたこともないです」と、笑う。

続けて、「J-POPでもバラードやミディアムにおいては母音をしっかり発音することは可能なので、全歌詞が日本語でも違和感はないですが、比較的早いBPMの楽曲では(全歌詞日本語も存在するが)、グルーヴ、いわゆるノリの面に関して、たとえ発音がネイティブではない和製英語でもそちらを使用するほうが次への単語やセンテンスへのつなぎがスムーズなので重用されます。

加えてJ-POP、J-RAPは洋楽を取り入れて独自にカスタマイズされ、もはやガラパゴスな日本に根付いており、ビジネス的にも文化的にも国内のみで成り立っている状態です」と、指摘する。

つまり、海外を意識せずともある程度国内で浸透し、ビジネスが可能な分野になっているというのだ。
英会話が苦手な日本人には、発音を気にしない和製英語のほうが多くの人に伝わりやすく、あえてネイティブな外国語にする必要もないという考え方なのだろう。

英語と日本語とのダブル・ミーニングで、ひとつの分岐点となったサザンオールスターズ

また、“歴史的”観点から、サザンオールスターズがひとつの分岐点になったと指摘するのは作編曲家の田辺恵二氏だ。

「僕の考えでは、もともと歌謡曲に英語が混ざる例は少なかった。ラブとかガールとかを慣用句的に使うことぐらいはあったと思うんですよ、ロンリーガールとか。

それが英語の使い方という意味ではっきり新しい流れとして分かれたのがサザンだと思うんです。

例外もあるでしょうが、桑田さんはギターを弾きながらまずメロ(ディー)に乗せるための適当な英語を歌いながら歌詞を乗っけていくらしい。

それで、そこに合うような同じような発音の日本語を合わせる。

いわゆる、ダブル・ミーニングになるわけですよね」

英語と日本語とのダブル・ミーニング(2つ以上の解釈が可能な意味づけのこと)を取り入れて、日本語の中でも縁語、掛詞など和歌における修辞技法がよく見られるという桑田の楽曲。

日本語英語のような独特の歌唱法と相まって、ひとつのスタイルを築いたということだろう。
90年代以降は、英語をしっかり操れる人がカッコよく歌う日本の楽曲が登場

「90年代に入ってくると、安室奈美恵が代表格だと思いますが、いわゆる小室哲哉さん以降の曲は英語と日本語の融合みたいな感じの曲が増えました。

日本語に聞こえるような英語、英語に聞こえるような日本語、みたいな感じでうまく使っていたと思うんですよ。

曲に関わっていた人たちが英語ができたのと、メロディーの作りも洋楽に徹していたので、やっぱり英語の発音のほうが合うんじゃないかと」

田辺氏はさらに、90年代後半にミュージック・シーンに躍り出た宇多田ヒカルをはじめ、いくつかのパターンをあげる。

「ニューヨーク生まれの宇多田ヒカルなんかは、和製英語というより、ちゃんと英語がわかる人が歌うというスタイル。

松本隆さんが作詞を手がけた松田聖子の『SWEET MEMORIES』は、全編英語バージョンもありました。

その辺り、歌謡曲に英語もいいんじゃないかっていう流れも出てきたわけですよね。

若いロックバンド、ONE OK ROCK(ワンオクロック)とかは本当に海外につながっているだけあって本物の英語で、それに日本語が混ざるとか。

そういうパターンもある。現在のJ-POPを大きく分けると、本物の英語として成り立っているものと、発音とか語感の響きで使っているのと、その2つがありますよね。

中途半端なものはなくなってきているのかもしれないですね」

宇多田といえば、2016年にリリースしたアルバム『ファントーム』では、亡くなった母・藤圭子に捧げる作品として、日本語で歌うことをテーマに決め、わずかに英語とフランス語が用いられているものの、ほぼ日本語で書かれたものにチャレンジもしている。

英語堪能な宇多田が、あえて日本語の美しい響きを追求したという意味で興味深い。

「洋楽のオールディーズからの流れ、ウエスタン・カーニバルの時代にも英語の混ざる歌詞はありましたが、名詞のみなど、単純な使われ方でした。

それが一時、演歌が主流になって、当然日本語が多くなった時期があった。

でもその後、やっぱり海外の音楽の情報などもどんどん入るようになって、世界と距離が縮まるなかで、英語と日本語が共存するような形になってきましたよね。

ロックバンドとしてはやっぱり英語がかっこいいよねって、そういうノリで英語でやっているバンドも多いですよね。

パンクロックなどにはやっぱり英語が合うんじゃないか、とか」

日本語と英語は、今後もさまざまな形で共存していきそうだ。あなたは、どんなスタイルの曲がお好みだろうか。

装甲車は不要な理由

もはや自衛隊に装甲車は不要な理由

2018/08/07

7月27日、防衛省は陸上自衛隊の次期「装輪装甲車」の開発中止を発表した。

本稿では、まず陸自が断念を発表した背景を説明し、その上でそもそもこの種の装備自体が日本の戦略と戦略・作戦環境からして無用の長物であり、税金の無駄でしかないことを指摘したい。

新型装輪装甲車が“欠陥品”扱いされた理由

陸自が次期装輪装甲車の開発を中止した理由は、開発を請け負った小松製作所(以下「コマツ」)が脆弱な防弾装甲しか作れなかったというのが公式の説明である(参考:コマツのプレスリリース「防衛省開発事業 装輪装甲車(改)試作研究事業中止に関するお知らせ」)。

実は、かねてより陸自内部ではこの装輪装甲車はポンコツ扱いされ、率直に言えば悪評ふんぷんであった。

その理由の第1は、そもそも開発費が安すぎたことである。

コマツは20億円という圧倒的な低価格で開発プロジェクトを応札したが、これがいけなかった。

とても新型装輪装甲車の開発と試作車両の複数生産ができる価格ではなかったため、いろいろな無理が出てしまったのである。

第2は車高が高すぎたことである。

例えば、米軍が採用しているストライカー装輪装甲車は2.64メートル、独軍のボクサー装輪装甲車は2.37メートル、中国軍の08式装輪装甲車は2.1メートルである。

しかし、次期装輪装甲車は2.9メートルである。

しかもRWS(遠隔操作式砲塔)を載せれば3メートルを優に超す“高身長”になってしまう。

高身長の理由の1つは、中東で猛威を振るった路肩爆弾(砲弾等を地面に埋め込み強力な地雷とする)対策だという。

つまり爆風を逃がすよう底をV字型にしたため、と言われている。

だが、ストライカーは底をW字にすることで車高を低くしているのだから、何の言い逃れにもならない。

では車高が高いと具体的に何が問題なのだろうか。

1つは野戦であれ市街戦であれ、車高が高いと暴露率を上げるからである。

ある幹部は「あれでは敵に見つかりやすく危険すぎる」と指摘したが、確かにそうだろう。

単純な例としては、中国軍の08式装輪装甲車と次期装輪装甲車が接近すれば、先に後者が発見され撃破されてしまうということだ。

もう1つは輸送のリスクである。

陸橋の車高制限に引っかかったり、輸送機で空輸できない場面が出てくるのだ。例えば自衛隊が主力として使用しているC-130輸送機は貨物室が2.74メートルなので、次期装輪装甲車は入らない。

いまだ8機しかないC-2輸送機でしか空輸ができないのである。

そもそも日本に装甲車は必要か?

このようにコマツが開発を請け負った次期装輪装甲車は問題だらけであった。

防衛省は開発をやり直すか、海外からの購入を検討するとしている。

だが、そもそも日本に、この種の兵員輸送用の装甲車が「大量」に必要なのだろうか。

ここで、日本が置かれた戦略・作戦環境を考えてみよう。

まずは海外派遣の場合だが、こうした任務では、現地のゲリラ勢力からの攻撃を考えれば装甲の分厚い兵員輸送車両は確かに必須に思える。

特に路肩爆弾やドローン対策は必須だろう。

しかし、そもそも南スーダンPKOの日報問題のトラウマ後も、陸上自衛隊が大規模に海外に展開することがあるのだろうか。

PKFの本体業務のような武器使用を実施する任務を行うことはあるのだろうか。

少なくとも近い将来にはないし、そのような戦闘状況に自衛隊を多数送ることは考えにくい。

であれば、路肩爆弾対策に特化したオーストラリア製ブッシュマスターを引き続き運用・調達するか、もしくは米軍が大量に保有しているMRAPの中古を少数調達すればよい。

では、日本への攻撃、いわゆる武力攻撃事態時はどうか。

その場合も出番はない。中国と日本もしくは日米が開戦ともなれば、石垣・宮古島は海峡突破のために攻勢を受けるだろうし、本土の有力な自衛隊の拠点は弾道・巡航ミサイルやサイバーによる攻撃のみならず特殊部隊によるゲリコマの攻撃を受けるだろう。

しかし、冷戦時代のように敵の機甲部隊が本土に上陸する蓋然性は低い。

そうであれば、歩兵部隊を砲火の下でも機甲部隊に追随させるための兵員輸送用の装甲車は不要であろう。

本土での兵員輸送は、トラックや高機動車だけで十分である。

また、米軍がストライカー旅団構想で前提としたような、“重装甲部隊と軽歩兵の中間的な存在”を機動的に派遣する必要もない。

石垣や宮古などの離島ではどうか。これらの地域では動き回る地形の余裕もないので、あまりに役に立たず、兵員輸送用の装甲車など無用の長物でしかないだろう。

敵戦力の上陸後の逆襲で使用するというのもナンセンスだ。

地形以外の面からみても、兵員輸送用の装甲車の必要性は低下している。

日本を除く諸外国では偵察・攻撃用ドローンの調達が進み、歩兵から装甲車まで装備が進んでいる。

ドローンに即座に発見・攻撃されてしまうため、装輪装甲車が誇る機動性も今や無意味となっているのだ。

実際、北部方面隊がドローン「スカイレンジャー」を試験目的で一時的に採用したところ、火力誘導における観測能力が大幅に向上するなど大きな効果が認められたという。

また、対戦車ミサイルの性能は威力・命中率ともに大きく向上しており、対戦車ミサイルを装甲で防ぐのは困難になりつつある。

それを考えれば、装甲にこだわることは費用対効果に優れない選択といえよう。

日本に必要な装甲車とは?

もちろん一部の部隊には装甲車も必要だろう。それは、偵察(センサー)用と攻撃(シューター)用である。

要するに、ドローンを積載し、偵察や攻撃を最前線の最前線で行う車両のみ、ある程度の装甲をまとった車両を少数用意すべきなのである。

その他はトラックや高機動車で十分である。

現在、ドローンの性能は飛躍的に向上している。

6月に実施された「湘南UAVデモンストレーション」にて、日本初のデモ飛行を披露したイスラエル製偵察ドローン「G2」は、「雨天でも飛行可能」「2時間近く飛行可能」「赤外線センサー(6倍)・高性能カメラ(40倍)積載」という機能を誇り、たった600万円である。

また、ポーランド軍は自爆ドローンを100セット(合計20万ドル)購入し、歩兵や装甲車に積載するとしている。

このドローンは1セットに10機搭載され、12キロメートルを偵察飛行可能な上、最終的に1.4キログラム弾頭を相手にぶつけられるという。

中国軍も同様のCH-901自爆ドローンを開発し、装甲戦闘車に8発積載する等している。

このドローンは最大時速150km、航続時間2時間の性能を誇り、偵察も自爆攻撃も可能である。

しかもこの装甲戦闘車は車体後部に偵察大型ドローンを3機も積載している。

この中国軍の装甲戦闘車は陸自の次期装輪装甲車よりも小型で装甲も薄いが、どちらが戦場で強力かは言うまでもないだろう。

要するに、自爆型を含む高性能ドローンの登場は、装甲車の装甲及び機動性を安価かつ効果的に無意味化させるのである。

陸自は旧時代的発想を捨てよ

以上の理由から、陸自は兵員輸送用の装甲車の開発に何十億円、調達に何千億円もの巨費を投じる必要はない。

むしろ10式戦車のネットワーク性を活かして、機甲科は自爆・偵察ドローンの運搬役に特化すべきである。

しかも、陸上自衛隊のドローンの装備の遅れが深刻なことを思えば、なおさらそうすべきである。

例えば、複数の防衛省・自衛隊の幹部によれば、浜岡原発と首都防衛を預かる東部方面隊は、ただの1機もドローンを装備していないという。

これでは、災害対応もままならないし、複雑な市街戦をドローンなしで戦わざるを得ない。

しかも、相手がドローンを使ってきても対策が分からない。

何せ普段から見たことも触ったことも勉強したこともないのだから。

筆者のような見解は、陸自内部でも一定の勢力を持っている。

とはいえ大多数は装甲車両の絶対数を確保すべきという発想のままである。

中には、「普通科魂」「機甲科魂」を叫び、旧陸軍のような精神論を根拠として上記の主張に反対する主張する向きもあるという。

複数の陸上自衛官が、「このままでは旧軍の失敗を繰り返す」と危惧する所以である。

しかし、時代の変化に対応できない軍隊が勝利できるはずもない。

今回の次期装輪装甲車の開発断念を契機に、陸上自衛隊は兵員輸送用の装甲車の必要性を見直すべきである。

「普通科魂」「機甲科魂」といった旧時代的な言葉を振りかざすのではなく、新しい時代の戦略・作戦環境や日本の政策に見合った戦いを模索し、そのために必要な精神性を考えるべきだろう。

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特定秘密保護を治安維持法と批判した神原内閣参事官、屋久島の岩場で死体で見つかる

原発と闘った四代正八幡宮の宮司・林晴彦氏突然死(2007年3月)

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反原発の岩路真樹(報ステ)ディレクター練炭自殺   命を掛けた8分間!もし私が死んだら殺されたと思ってください!

NHKの早河信夫解説員(番組で加計問題を扱った直後急死)

自民党選対委員長塩谷立の元秘書(自殺。ダークマネー疑惑を文春にリークしていた)

加計学園獣医学部建設工事で見積りが2倍になっている設計図書を市民運動家黒川氏に情報提供した工事関係者自殺

森友学園問題で値引き交渉をした近畿財務局の財務官僚担当者自殺

ドイツ外相:日本に連携強化求める

ドイツ外相:日本に連携強化求める-「米国第一主義」への対抗で

トランプ米大統領やロシア、中国のような勢力に対して地政学的システムを守るため、日本とドイツは「多国間協調主義の中心」メンバーとして協力すべきだと、ドイツのマース外相が主張した。

来日中のマース外相は25日、東京都内で講演。

トランプ政権の保護貿易や「米国第一」主義は独日両国に難題を突き付けているとしたほか、「数十年にわたり築き上げられた同盟関係を疑問視」することで世界の不透明感をかき立てているとトランプ大統領を非難した。

同相は「現在のような地政学的状況下では、ドイツと日本が結束を固める必要がある」とし、両国が連携を強めることで「世界という舞台の一部から米国が退く」のをカバーできるかもしれないと述べ、日本と欧州連合(EU)が今月署名した経済連携協定(EPA)を称賛した。

マース外相はまた、日本とEUは中国の「不公正な貿易慣行」と闘うべきだとも語り、「国際貿易システムを強化し米国をそこにとどめるため、可能な限り、日本とEU、米国の間で協力を引き続き推し進めることは妥当だ」と付け加えた。

ブルームバーグ 2018年07月25日

人民元の下落

クドローNEC委員長:人民元の下落、「劣悪な投資先」との評価も反映

2018年08月04日

ホワイトハウスのクドロー国家経済会議(NEC)委員長は、人民元相場が下落している理由の一つは中国が「劣悪な投資先」だからだとし、中国をこき下ろした。

中国は3日、 米国の対中追加関税計画が実行された場合、中国は米国からの輸入品に関税を賦課するとして、その対象リストを発表していた。

クドロー氏は3日、ブルームバーグテレビジョンのジョナサン・フェロ記者とのインタビューで、「元安の背景には、中国が劣悪な投資先だから資金が逃げていることもあり、これが続けば中国経済に本当の被害が及ぶと私は思う」と語った。

これに先立ち中国人民銀行(中央銀行)は、人民元下落の抑制に向け、為替フォワード取引の一部を対象に準備金預け入れを義務付けた。

これにより元ショート(売り持ち)は、事実上コストが高くなる。

クドロー氏は「中国から資金が逃避した場合、そして通貨はその先行指標となり得るが、中国にとって大変なことになる。

よって私は、中国が経済的に弱い立場にあると主張する。

中国にとりそのような状況は、向かい合って貿易交渉をする上で適していない」と述べた。

さらに「中国経済は成長が鈍化しているように見える。

ほぼ全面的に弱まっている。

人民銀は強力な資金の追加供給や与信により、景気を押し上げようとしているようだ」と語った。

秘密結社にもLGBTの波=フリーメーソン、性転換容認-

秘密結社にもLGBTの波=フリーメーソン、性転換容認-英

2018/08/04(土)

【ロンドン時事】男性しか入会できないことで知られる世界的な秘密結社フリーメーソンはこのほど、男性会員が性転換して女性になった場合も会員として認めることを決めた。

英メディアが報じた。300年以上の歴史の中で初めて、女性会員が認められることになる。

日本国内でLGBT(性的少数者)に対する政治家の差別的発言が問題となる中、謎に包まれた秘密結社ではLGBTへの理解が進んでいることが浮き彫りとなった。

フリーメーソンの総本山ユナイテッド・グランドロッジ・オブ・イングランド(UGLE)が最近、新たな入会資格の指針を会員に示した。

女性として生まれ、性転換して男性になった場合でも入会を認める。

ただ、女性の入会希望は今後も受け付けず、性転換した女性が相手でも互いを「ブラザー(兄弟)」と呼ぶ独自の習慣も変わらないという。

UGLEは1717年設立。英国のイングランドとウェールズの会員を束ねているが、事実上の世界本部の機能を果たしており、今回の決定は約600万人に上るとされる世界中の会員にも適用されるとみられる。

ツイッターでは、UGLEの公式アカウントに対してフリーメーソン会員を自称する人から「誇りに思う」と評価する声が寄せられる一方、「理解はするが、私の思いをうまく言い表すことができない」と戸惑う向きもあった。

災害は明らかに「人災」だ

大氾濫を引き起こした異常放水の主因は「初動の遅れ」。西日本豪雨災害は明らかに「人災」だ

2018/08/02

◆昭和47年の水害のときから高梁川流域では囁かれていた「ダム起因説」

「昭和47年(1972年)の大水害でも今回と同じように高梁川沿いの一帯が水没、その時も『ダムが原因ではないか』という話が出て被災者が訴訟を起こしたと聞いています。敗訴したそうですが」

こう話すのは、河本ダム下流の高梁川沿いでホテルを経営する金海偵子さん(高梁市在住)。

今回の豪雨災害でホテルと隣の自宅とアパートの一階が浸水したが、その時の様子は「もう放水はしないでくれ 水没の街にみたダム行政の“限界”(西日本豪雨)」(7月16日放送のFNN「報道プライムサンデー」)が実況中継していた。

取材スタッフがダムの異常放水時に金海さん経営のホテルに一時避難し、急激な床上浸水に遭遇していたのだ。

「その記者の方は後日、大学教授とホテルにいらして窓に残った三本線を撮影、『ダム放水量が上がるごとに水位が上昇し、跡として残ったのだろう』と解説していました」(金海さん)。

「上流のダムからの異常放水で高梁川が水位上昇、下流の洪水被害を招いた」ということを示唆する物的証拠が残っていたのだ。

とすれば、45年ぶりに再びダム訴訟が起きても不思議ではない。

原告となる可能性があるのは、金海さんら高梁市民だけではない。

堤防決壊で街全体が水没、死者50人の犠牲者を出した倉敷市真備町地区の被災者が集団提訴に踏み切ることも十分に考えられる。

矢面に立たされることになりそうな「河本ダム」(新見市)は今回の記録的豪雨で平時の75倍も異常放水、その時間帯に下流の倉敷市真備町地区の堤防が決壊したことから「豪雨災害の原因(元凶)か」と疑われている(「死者50人を出した倉敷市真備地区の被害の要因!? 高梁川上流・河本ダムの『異常放水』」記事参照)。

◆27時間の「初動の遅れ」が致命的なミスだった

こうした見方に対して、ダム管理者の岡山県高梁川統合管理事務所は「ダム決壊を避けるために異常放水は仕方なかった」(森本光信・総統轄参事官)と反論する。

「異常放水をせずにダムが満杯になると、ダム決壊で大被害の恐れがあった」というわけなのだが、「放水量の推移」と「貯水率(ダム貯水量/最大貯水量)」に注目すると、自らの職務怠慢を棚に上げた言逃れであることがすぐ分かる。

気象庁が「記録的豪雨の恐れ」という警報を発したのは7月5日14時で貯水率は満杯に近い「約8割」だった。

しかし、放水量(平時は毎秒10トン)を増やしたのは27時間も後の6日17時。

「初動の遅れ」とはこのことだ。ダムをできるだけ空に近づけるために、すぐに下流が氾濫しない範囲内の最大放水量にまで上げておく必要があったのだ。

迫り来る大雨に備え、貯水率をできる限り下げる緊急対応を開始、ダムの治水機能を十分に発揮できるようにしなければならなかった。

この「27時間のロス」が致命的な事態を招いた。

気象庁の警報通りの、記録的豪雨が襲って来た時には貯水率は約8割のまま。

遅ればせながら放水量増加を始めたものの、6時間後の6日23時には満杯となってしまって治水(貯水)機能を喪失、ダム流入量をそのまま放水する状態(「異常洪水時防災操作」)となってしまった。

その結果、平時の60倍以上の異常放水が10時間以上も続いた。

下流の真備町地区の堤防が決壊したのは、治水機能喪失から2時間半後の7日1時半。

準備不足で最大治水機能の2割(5分の1)しか発揮できず、下流域の住民の生命財産を守ることができなかったは明らかなのだ。

◆無為無策の27時間を過ごした安倍首相と石井国交大臣

「国民の生命財産を守る」が口癖の安倍首相はこの時、すぐに非常災害対策本部を立ち上げて「放水量増加によるダムの貯水量低減」を指示すべきだった。

しかし実際には、無為無策の「27時間」を過ごした。

気象庁の警報が出てから6時間半後の7月5日20時半、自民党国会議員との飲み会「赤坂自民亭」に出席。21時すぎ、記者に「和気あいあいでよかった」と答えて私邸に戻った。

5日夜の赤坂自民亭への出席をキャンセルしてすぐに非常災害本部を設置、「ダム放水量増加=貯水率低減」を指示していれば、氾濫被害を回避あるいは低減できたに違いない。

しかし、非常災害対策本部が設置されたのは警報から66時間後、真備町地区が水没した後の8日8時。リスクを先読みする危機管理能力が皆無に等しいことを露呈したのだ。

しかも安倍首相の号令を受けて、非常災害対策本部で先頭に立つべき石井啓一国交大臣は6日、カジノ実施法案の審議に6時間張りついた。

ダム管理の最高責任者である石井大臣も安倍首相と同様、豪雨災害対応に集中する代わりにカジノ法案を優先、豪雨被害低減が可能だった27時間を浪費した。

この安倍首相と石井国交大臣の職務怠慢こそ、西日本豪雨災害を拡大させた原因になったと言っても過言ではない。

初動の遅れ(職務怠慢)による豪雨被害拡大を認めようとしない安倍首相は、日本国民の生命財産を守る重責を担う最高権力者としての資質を欠いているのではないか。

今回の西日本豪雨災害を受けて「防災省」創設を提唱している石破茂・元地方創生大臣との差が際立って見える。

日本人とカレーの出会い

日本人とカレーの出会い

日本人がカレーと出会ったのは江戸時代末期、ペリーの黒船来航後に日本が開国し、尊皇攘夷運動が盛んになった混乱した時代でした。

日本人でカレーについてのもっとも古い記録を残しているのは福沢諭吉です。

福沢は1860年(安政7/万延元年)に「増訂華英通語」という辞書を出版しました。

これは福沢がアメリカで購入した英中辞典を元に、発音をカタカナで表記したもでした。

この中で、英語の「curry」に「コルリ」という発音が記されれています。

但し、これは多くの英単語の内のひとつとして紹介されているだけなので、当時の福沢が実際にカレーを見たり食べたりしたことがあったかどうかはは分かりません。

日本人で実際にカレーを目撃したもっとも古い記録を残しているのは、1863年(文久3年)幕府遣欧使節の一人だった三宅秀です。

幕府遣欧使節一行はフランスの船でヨーロッパに向かっていました。

その船にはインド人も同乗しており、その食事を目撃したのです。

三宅は日記に次のように書いています。

「飯の上ヘ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す。至って汚なき人物の物なり」

また、幕末の日本では横浜などの貿易港に外国人居留地が作られており、そこで暮らすイギリス人を通して、ヨーロッパ風のカレーが日本人に紹介されていました。

但し、この頃カレーを知っていた日本人は、外国人に接する機会があった一部の人だけでした。

カレーが一般の日本人にも知られるようになるのは明治時代になってからでした。

日本人で実際にカレーを食べたというもっとも古い記録を残しているのは、1971年(明治4年)国費留学生としてアメリカに向かっていた山川健次郎です。

アメリカへ向かう船の中で山川は、船酔いで苦しんでいた上、食堂で出される西洋料理が口に合わず、食欲不振になり体調を崩していました。

しかし何も食べないわけにはいかず、食堂のメニューから何とかして食べられそうなものを探しました。

そして見つけたのがカレーライスでした。

日本人である山川は、米を使った料理ならなんとか食べることができたのです。

日本で初めてのカレーのレシピは1873年(明治5年)に発売された「西洋料理通」(仮名垣魯文著)と「西洋料理指南」(敬学堂主人著)の2冊の本に記載されています。

この両書の共通の特徴は、カレー粉で味付けし、小麦粉でとろみを出すことと、野菜はネギのみを使用し、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ等は使われていないことです。

肉については「西洋料理通」では牛、鳥、羊を、「西洋料理指南」では鶏、エビ、タイ、カキ、赤カエルを使っています。

カレー粉と小麦粉が使われていることから、カレーがインド料理としてではなく、西洋料理として日本に伝わったことが分かります。

また野菜はネギしか使われていませんが、現在のカレーでは定番のタマネギ、ニンジン、ジャガイモなどは、当時の日本ではあまり栽培されていなかったこともあり、まだカレーの具としては用いられてはいなかったようです。

1876年(明治9年)には札幌農学校(現北海道大学)が設立され、「少年よ、大志をいだけ」で有名なクラーク博士が赴任してきました。

クラーク博士は寮に住む学生の栄養状態改善のため西洋料理を推奨し、「生徒は米飯を食すべからず、但し、らいすかれいはこの限りにあらず」という規則を作りました。

「ライスカレー」の語源はこの一件にあるとする説もあります。

1877年(明治10年)以降はカレーライスをはじめステーキ、カツレツなどの西洋料理を扱う飲食店も増えてきました。

しかし庶民的な和食の数倍の価格だったので、まだ高級料理として扱われていました。

カレーが庶民の身近な料理になるのは明治時代後期になってからでした。

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日本でのカレーの普及

明治時代後半になるとカレーは庶民的な洋食店でも扱われるようになりました。また、比較的裕福な家庭でも作られるようになりました。

カレーが一般庶民の家庭でも作られるようになったのは、日露戦争がきっかけでした。

朝鮮半島と満州の支配権を巡って対立していた日本とロシアは1904年(明治37年)2月8日に戦争を始めました。

これが日露戦争です。二〇三高地の激戦や日本海海戦を経て1905年(明治38年)9月5日ポーツマス条約が締結され、日本は勝利しました。

戦争を行うためには兵士に食べさせる食料が必要です。

そしてそれは、日持ちがする食材で一度に大量に簡単に調理できるものでなくてはなりません。そこで白羽の矢が立ったのがカレーでした。

カレーは軍用食品として最適だったので、陸海軍ともに採用されました。

海軍でのカレーを食べる習慣は、現在の海上自衛隊にも引き継がれており、毎週金曜日が「カレーの日」になっています。

日本軍の兵士達は軍隊でカレーの作り方を覚えました。そして戦争が終わると兵士達は国へ帰り、家族にカレーの作り方を教えました。

これ以降、一般家庭でもカレーが作られるようになりました。

明治後期から昭和初期にかけてカレーが一般化するにつれて、様々な新製品が続々と作られました。

1902~03年(明治35~6)頃、日本郵船の客船の一等食堂で、福神漬けがカレーのつけ合わせとして採用されました。

(福神 漬けそのものは1886年(明治19年)に 東京池の端・酒悦によって製品化されています)

1904年(明治37)頃、東京早稲田の三朝庵がカレーうどんを考案しました。

1906年(明治39年)東京神田の一貫堂から日本初のインスタントカレー「ライスカレーのたね」が発売されました。

これはカレー粉と肉を混ぜて乾燥させたもので、お湯をかけるだけで食べられるというものでした。

1909年(明治42年)頃、東京目黒の朝松庵がカレー南蛮蕎麦を考案しました。

1910年(明治43年)大阪難波で自由軒が開店。カレーとライスをあらかじめ混ぜ合わせ、生玉子をのせているのが特徴でした。

1911年(明治44年)頃、日本郵船の客船・三島丸の食堂のシェフがドライカレーを考案しました。

これは、白飯の上に汁気の少ない挽肉カレーをのせたものでした。

大正時代になるとタマネギ、ニンジン、ジャガイモといった野菜も一般的になり、カレーに使われることも多くなりました。

現代の日本のカレーの基本的な形態はこの頃確立されました。

1914年(大正3年)東京日本橋の岡本商店がインスタントカレー「ロンドン土産即席カレー」を発売しました。

これはお湯で溶いて肉や野菜を入れて作るものでした。

1918年(大正7年)東京浅草の洋食店・河金がカツカレーを考案しました。

1926年(大正15/昭和元年)「ホームカレー」の商標を持つ稲田商店を吸収していた大阪の薬種問屋・浦上商店(現ハウス食品)が、粉末タイプの即席カレールー「即席ホームカレー」を発売しました。

その後、1928年(昭和3年)に「ホームカレー」は「ハウスカレー」と改名されました。

1927年(昭和2年)東京深川の菓子店・名花堂(現カトレア洋菓子店/江東区森下)がカレーパンを考案し「洋食パン」の名で実用新案登録しました。

1927年(昭和2年)東京新宿の中村屋は、日本の飲食店としては初めて本格的なインド風カレーをメニューに取り入れました。

中村屋の創業者の相馬愛蔵は、日本に亡命中だったインド独立運動家ラス・ビハリ・ボースを保護していました。

ボースは日本のカレーが安い食材を用いた経済料理になっている現状を憂い、相馬に本格的な高級インド風カレーを作るよう進言しました。

相馬はボースの意見を採用し、最高の食材を使ったインド式「カリー・ライス」を完成させました。

このように、カレーは日本人の食生活に定着していきましたが、カレー粉は昭和初期頃までイギリスのC&B(クロス・アンド・ブラックウェル)社製のものでほぼ独占されていました。

当時のC&B社はカレー粉の製法を公表しておらず、製品のパッケージにも「このカレー粉は東洋の神秘的な方法によって製造された」としか書かれていませんでした。

このため、国産品でC&B社製と同等以上の品質のカレー粉を作ることは困難でした。

明治時代末期頃から国産のカレー粉も作られてはいましたが、これは輸入品にスパイスを添加しただけのもので、完全な国産品ではありませんでした。

初めて純国産の高品質なカレー粉を作ることに成功したのは、東京浅草の日賀志屋(現ヱスビー食品)でした。

創業者の山崎峯次郎は日賀志屋設立当初からカレー粉の研究を始め、1923年(大正12年)にC&B社製に負けない品質のカレー粉を完成させました。

これ以降、いくつかの他メーカーからも純国産のカレー粉が発売されました。
しかし、国産のカレー粉はしばらくの間あまり売れませんでした。

それは、長い間C&B社製のカレー粉が独占的に使われていたため、多くの飲食店が「カレー粉は C&B社製でなくてはならない」と考えていたためでした。

しかし、ひとつの事件をきっかけに、国産のカレー粉は急速に普及していきました。

1931年(昭和6年)C&B社製のカレー粉の容器に安い国産のカレー粉を入れて売っていた悪徳業者が摘発されました。

このとき既に多くの偽造カレー粉が販売され、使用されていました。

しかし、長い間カレー粉の偽造には誰も気付きませんでした。

この当時の国産のカレー粉はC&B社製に負けないくらい高品質になっていたため、実際食べ比べてみても違いが分からなかったのです。

この一件が国産のカレー粉の評価を高める結果になりました。

これ以降、国産のカレー粉が普及していきました。

大航海時代とスパイス貿易

大航海時代とスパイス貿易

ヨーロッパでは紀元前からアジア産のスパイスが使われていました。

東南アジア産のスパイスは海路でインドに集められ、インド産のスパイスとともにアラビア商人の手によって、シルクロード経由でヨーロッパに運ばれていました。

ヨーロッパではアジア産のスパイスは高値で取引されるため、アラビア商人はこのスパイス貿易で莫大な利益を上げていました。

西洋人はスパイスをアジアから直接仕入れることができるようになれば、自分たちもスパイス貿易で大きな利益を上げることができると考えました。

しかし、シルクロードはアラビア商人に支配されていたので使えません。

そこで、海路アジアへ行くための航路開拓が求められるようになりました。

そして15世紀中頃、大航海時代が始まりました。

イタリアのジェノヴァ出身の航海家で商人でもあったクリストファー・コロンブスは、当時最新の仮説だった地球球体説に基づき、ヨーロッパから西回りでアジアへ到達することを考えました。

コロンブスはスペイン・カスティーリャ王国の女王イザベル1世の援助を受け、1492年8月3日に西に向かって航海を始めました。

そして同年10月11日に島を発見し上陸しました。

コロンブスはこのとき上陸したのはインドの近辺の島だと考えていましたが、実際はアメリカのカリブ海に浮かぶ島でした。

1493年3月15日、コロンブスはスペインに帰還 しました。

コロンブスはアメリカから様々な品物を持ち帰りましたが、その中のひとつがチリペッパー(唐辛子)でした。

これは西洋人が初めて体験する、強烈な辛味を持ったスパイスでした。

実際のアジア航路はポルトガル人の航海家ヴァスコ・ダ・ガマによって開拓されました。

ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ南端を経由してインドにたどり着くことを考えました。

1497年7月8日にリスボンを出航し、翌年5月20日にインド南部のカリカットに到達しました。
これ以降、西洋人はアジアから直接スパイスを仕入れることができるようになりました。

アジア航路が開拓されると、西洋人はアジア各地からスパイスを仕入れると同時に、アメリカから持ち帰ったチリペッパーをアジア各地へ伝えました。

インドや東南アジアでは元々辛いものを好む食文化があったので、チリペッパーが伝えられると瞬く間に普及し、各地の食文化に劇的な変化をもたらしました。

そして、インドや東南アジア各地のカレーにはチリペッパーが用いられるようになり、これまでよりも辛いものになりました。

同時にこれまで代表的な辛味性スパイスのひとつだった、ロングペッパー(長胡椒)はあまり生産されなくなりました。

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西洋人とカレーの出会い

16世紀以降、ヨーロッパ各国はアジアとの貿易で独占的な利益を上げるため、アジアの植民地化を始めました。

インドに最初の植民地を築いたのはポルトガルでした。ポルトガルはインド南西部のコーチン、ゴアとセイロン島(現スリランカ)を占領し、アジア貿易の拠点にしました。

17世紀になると、オランダ、フランス、イギリスがインドに侵出してきました。

オランダはポルトガルからセイロンを奪い、フランスは東海岸のポンディシェリに、イギリスはインド東部ベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)、東海岸のマドラス(現チェンナイ)、西海岸のボンベイ(現ムンバイ)に拠点を築きました。

この三国はそれぞれ東インド会社を設立し、植民地経営を行わせました。

最終的にインド全域を支配したのはイギリスでした。

イギリスは1756年~1763年の7年戦争でフランスをインドから追い払いました。

その後、イギリスはインド東部のベンガル地方全域を占領すると、1773年に東インド会社の社員だったイギリス人ウォーレン・ヘースティングズを総督に任命して統治させました。

以後は、東インド会社に代わってイギリス政府が直接総督を派遣して統治する体制が作られました。

イギリスはベンガル地方から徐々に支配地域を拡大し、19世紀中頃までに現在のインド、スリランカ、パキスタン、バングラディシュ、ミャンマーの全域を占領しました。

1877年にはイギリス女王がインド皇帝を兼任する「イギリス領インド帝国」を成立させました。

16世紀初期、西洋人は植民地支配していたインドで初めて、後に「カレー」と呼ばれるようになる料理を目にしました。

この頃からヨーロッパでもインド人の食文化が紹介されるようになりました。

料理の名称としての「カレー(curry)」、またはそれに似た言葉は、16世紀後期~17世紀初期ごろから使われていたことが、当時のヨーロッパの書物で確認されています。

18世紀中頃までの西洋人は、カレーをインド人が食べているものとしては知っていても、

同じものを作って食べることはありませんでした。

しかし、18世紀後期になるとイギリスでカレーが作られるようになりました。

カレーのレシピが初めてイギリスに紹介されたのは1772年頃のことでした。紹介したのは1773年に初代ベンガル総督になるヘースティングズでした。

ヘースティングズの紹介したレシピは、稲作が盛んで米が主食のベンガル地方のものだったので、イギリスではカレーは米とともに食べるようになりました。

また、ヘースティングズはガラムマサラもイギリスへ持ち帰り、これが後のカレー粉の原点になったとも言われています。

「明解簡易料理法」(1774年)という書物には、現存するイギリスで最古のカレーのレシピが載っています。

それは「みじん切りにしたタマネギとぶつ切りにした鶏肉をバターで炒め、ターメリック、ジンジャー、ペッパー、クリーム、レモン汁を入れて煮る」というものです。

このレシピでは、インドで作られているカレーよりスパイスの種類が極端に少ないのが分かります。

イギリス人にはたくさんの種類のスパイスを組み合わせて使うことは慣れていないため難しかったようです。

このことがイギリスでカレー粉が考案された理由と考えられます。

初めてのカレー粉は18世紀末~19世紀初期頃にイギリスのC&B(クロス・アンド・ブラックウェル)社から発売されたと言われています。

カレー粉が作られてからイギリスのカレーは、シチューなどのヨーロッパの伝統的な料理の調理法を取り入れ、独自の発展を遂げていきました。

カレーの歴史

カレーの歴史

カレーは誰もが知っているとおり、インドの伝統的な料理です。しかしインドには元々、料理の名前としてのカレー(curry)という言葉は存在していませんでした。

「curry」という言葉の語源にはいくつかの説があります。特に有名な説は次の2つです。

1つめは、タミール語で「ご飯にかけるタレ状のもの」という意味の「カリ(kari)」という言葉を、西洋人が料理の名前と勘違いしたという説。

2つめは、ヒンディー語で「香りの良いもの」「美味しいもの」という意味の「ターカリー(turcarri)」という言葉を、これもやはり西洋人が料理の名前と勘違いしたという説です。
他にも様々な説がありますが、どの説が正しいのか、はっきりしたことはまだ分かっていません。

しかし、料理の名前としての「curry」という言葉は、西洋人が初めて使い始めたのは間違いないようです。

「curry」と名付けられた料理は、現在ではインドだけでなく、東南アジア、日本、ヨーロッパ、アメリカなど世界各地で食べられるようになりました。

日本では明治時代以降に広まった、比較的歴史の浅い食べ物であるにもかかわらず、既に日本人の食生活にはなくてはならない「日本料理」として定着しました。

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■カレーの誕生

インドで後に「カレー」と呼ばれるようになった料理がいつ頃誕生したのか、はっきりとしたことは分かりません。しかし、カレーに使われているスパイスのうちインド原産のものは、既にインダス文明時代から栽培されていたようです。

インダス文明は新石器時代に西アジアからインド北西部へ移住してきたドラヴィダ人という民族によって興されました。インダス文明は紀元前2300年頃に始まりました。

ドラヴィダ人はメソポタミアやエジプトなどと交易を行っており、中東で栽培されていたスパイスもインドへ持ち込まれていました。

スパイスをたくさん使ったインド料理の原型は、この頃既に形作られていました。

これが現在のカレーの原点、原始的なカレーの誕生といえるかもしれません。

紀元前1700年頃になるとインダス文明は衰退しました。

紀元前1500年頃になると中央アジアの遊牧民族だったアーリア人という民族がインド北西部へ移住してきました。

ドラヴィダ人はアーリア人によって征服され、一部はインド南部へ逃れていきました。

現在のインド人が地方によって民族や言語が違うのは、この一件の名残です。

アーリア人はインドに移住すると遊牧を止め、農耕を始めて定住するようになりました。

そしてアーリア人によって、インダス文明とは違う新しい文化が興りました。

原始的なカレーにはアーリア人の食文化も取り入れられ、インド各地で地域ごとに特色のあるカレーが発展し ていきました。

紀元前 300年頃になると、インド人は東南アジアと交易を行うようになり、インドへ東南アジア産のスパイスが持ち込まれると同時に、東南アジアへはインドの食文化が伝わりました。

このことにより、インドのカレーはさらに多くの種類のスパイスが使われるようになり、東南アジアでもカレーが作られるようになりました。

一方、タイ人の先祖はこの頃、華南地方で稲作をしながら暮らしていました。

しかし漢民族などの北方諸民族の南下に伴い、タイ人の先祖は周辺の各地へと移住を始めました。

彼らの一部は、9世紀頃までに現在のタイ王国のある、インドシナ半島まで移住してきました。

ここでタイ人はインドから伝わったカレーに出会いました。

そしてカレーはタイ人の食生活に取り入れられていきました。

こうしてインドで生まれたカレーは東南アジア各地に広まっていき、それぞれの地域の伝統的な食文化と融合して独自の発展を遂げていきました。

しかし、15世紀ごろまではアジアのどの国でも、現在のカレーには大抵入っているチリペッパー(唐辛子)は使われていませんでした。

実はチリペッパーは熱帯アメリカ原産で、この頃にはまだアジアには伝わっていなかったのです。

チリペッパーが伝えられるまでは、ペッパー(胡椒)やロングペッパー(長胡椒)などで辛味を出していました。